昨日の続き

昨日、怪談はリドルストーリーのように、結末がわからない方が、より恐いと書いた。じゃあ、なぜそうなのかということを風呂に入りながら考えてみた。
例えばある人があるところに肝試しに行き、霊を見る。それで、後日、日の高い内にそこへ行くとすぐ近くに墓地があった、という話しがあるとする。この場合、心霊現象の原因は墓地となる。これにより、怪異は解明され怪異ではなくなる。なんだかわからないものだからこそ、幽霊は恐いのである。原因がわかれば、恐怖も半減する。
昨日書いた話でも、なぜ赤い着物の女性が車に入ろうとしていたのかが語られていない。運転手に原因があるのか、車が悪いのか、あるいはやはり心霊スポットだからなのか。また、心霊スポットだからといって、あらゆる人に同じことが起こるわけではない。じゃあ、どういう人に起こるのか、自分は大丈夫なのか等々。また、話しの最後は後ろから来た車に乗せて貰ったとなっているが、それはたまたま通りかかった人である。でも本当に、たまたまなのか。それどころか、本当に人なのかもわからない。現実的な話しをすれば、結局、後日、車を取りに行かなくてはならないわけで、その時はどうしても運転しなくてはならない。また、車に霊がついていたわけではないとするなら、廃車にするかどうかも迷いどころだ。
もちろんこういった諸々のことを、話を聞き終えて(読み終えて)すぐに、全部、考えるわけではない。しかし、余韻こそが怪談にとって最も重要且つ恐いところなのだろう。
推理小説なんてものを好んで読んでいると、あらゆる謎に答えを求めてしまう。しかし、世の中には解かない方がいい謎が、たくさんあるはずだ。お気をつけください。