予定外・・・

少し前に書いた気もするが持っているジーンズの膝がことごとく破れて無事なものは一本しかない。いや、別に破れていてもいいんだがさすがに仕事に履いていくにはちょっと気が引ける。いや、時々、お客さんも来るしお使いにも行く。余談だが偉いお客さんが来るときやお使いに行くときほど髭を剃ってないことが多い。日頃の行いか?とまぁ、そういった理由でこの正月休みの間にジーンズを2本買おうと決心していた。予算は2本で6000円。普段履きではきつぶすにはそれぐらいでちょうどいい。というわけで買いに行ったんだが結果、2本で8000円とちょっと。予算オーバーだけどまぁ、いいか。買い物中、気になったものがある。靴屋によったんだがそこに福袋があった。一体、何が入ってるんだろう。靴はサイズがあるし好みもある。じゃあ、靴に関するものかとも思うが靴べら、靴墨、靴磨き・・・。どれもあんまり欲しくないな。
さて、先ほどニュースを見ているとどこたらの神社にその近くのお寺の坊主がお参りに行ったと言っていた。で、ニュースキャスターが「仏様を信じる僧侶が神をまつる神社にお参りに行く」というようなことを言っていた。これ間違いです。本来の仏教では仏様を、例えばキリスト教のイエスのように、信じるあるいは信奉するということはありません。よく考えていただきたい。信じるないしは信奉するというのは相手が絶対者であるから成立する。一番わかりやすいのが神だ。じゃあなぜ神を信じるのかというと絶対者を信じるといいことがあるからだ。わかりやすい例が天国に行けるってやつだ。でも仏教では仏様を信じてもいいことは起こらない。例えば仏様を信じて食べ物を布施したとしよう。その功徳により来世にはいい状況に生まれることができる。この場合のいい状況には天国も含まれる。でも仏教では天国に生まれることをいいこととは考えない。仏教で最高にいいのは悟りを開くことである。具体的にいえば二度と生まれ変わらないようになることである。で、そのための唯一の手段はすでに悟った人と同じ修行をすることである。じゃあ、すでに悟った人とは誰かというとそれはもちろん仏様ことお釈迦様である。となるとやっぱりお釈迦様を信じるのが悟りへの最短距離じゃないのかという気もするがまったく違う。仏教の僧侶が信じているのはお釈迦様という特定の人物ではなくお釈迦様と同じ修行をしていれば自分も悟ることができるということである。ここが仏教が宗教である唯一の部分とも言える。
まぁ、非常にわかりにくいと思うがつまりは仏教には特定の権力者も絶対神も存在しないのだ。あ、あくまでも初期仏教の話だけどね。