たまには

木曜日。今週は色々とあって忙しかったけど今日あたりから暇になった。ただ、忙しいというのは飛び込みの仕事が入ったからであって暇になったと言っても通常業務はある。まぁ、通常業務なんてのはあってないようなもんなんだけどね。それに飛び込みの仕事はいつでも入ってくるし。
それはさておき、たまにはまじめに。いや、以前からずっと思っていたと言うか考えていたのだが本ってのはものすごく特殊な形態のものじゃないかと思う。これ、まだまだ考え中なのでまとまりがない文章になると思うがご了承ください。
『密閉教室』という作品がある。この作品の最後に「コーダ」という部分がある。この部分が何を意味するのか、これが謎だった。それで、色々と考えそして文章にした。幾度か文章で自分の考えを書いた後に、ノーカット版『密閉教室』が発売された。結果的にこの本により「コーダ」の謎はある程度、解けたのだが、しかしこの場合の「解けた」は作者の法月綸太郎氏が何を考え何のために「コーダ」を書いたのかということである。これはもちろん正解ではある。しかし、本にお金を払い読んだのは他ならぬ僕だ。その僕が「コーダ」を読んだ結果、感じたこと考えたことが例え、法月氏の意図したものと違ったとしても問題はない。さて、これはあくまでも一素人が本を読んで書いた感想文の話である。では、プロの評論家の場合はどうだろうか?あくまでも個人的な意見だがたいして変わりはないんじゃないかと思う。プロの評論家といわれる人が色々なことを元にある作品を評論したとしよう。「この作品のトリックは○○の影響を受けている」とか「△△という社会現象が影響している」とか何とか。それが賞賛に値するすばらしい評論だったとしよう。だがしかしここで突然、作品の作者が現れ自分は評論家の言うようなことは考えたこともないし知ってもいない。何となく思いつきで書いたら結果、そうなってしまったと言ったら、それでどれほどすばらしい評論も意味がなくなる。ただしここでいう「意味がなくなる」というのはもちろん作者がそういう風に意図しなかったという意味でであり、評論家がそのように感じたという点においては充分、意味があるのである。
とまぁ、これだけじゃ本がなぜ、どういう風に特殊な形態なのかってことはわからない。わからないのもそのはずで僕もよくわかっていない。とにかく今日はここまで。