『容疑者xの献身』

読み終えたのが先週の金曜日。内容を忘れないうちに感想を書いておこう。でも、半分ぐらい忘れたかも・・・。以下ネタバレです。
wikiで調べてみたところ、作者が故意に隠しているデータがあるためにこの作品は本格じゃない、と某大先生はおっしゃっていたそうだ。まぁ、そう言われてみればそうかな。でもさ、この作品がなぜ、倒叙型(インバーテッドストーリーとか言ったはず・・・)なのかってところを考えればすぐにわかるんじゃないないだろうか。
あくまでも個人的な意見だけど、あらゆる手がかりを作中にちりばめて、作中の探偵と読者が対等であるという状況、いわゆる、フェアプレーってやつだ、はフーダニットに限られると思う。言い換えるなら、フーダニット以外はアンフェアであってもいい。
さて、僕の大好きな作品に『刑事コロンボ』シリーズがある。よく知られているとおり、倒叙型の物語だ。冒頭で犯行がえがかれ、読者はすべてを承知した上で物語を読み進める。すべてを知って猶、なぜ物語を読むのか。これに関して過去に書いた文章から引用しよう。

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「犯人は誰か?」を目的とするミステリにおいて読者は探偵となり、登場人物とともに物語世界で犯人を捜す。この際、読者がどれほど論理的な推理をしようと絶対者である神(作者)が用意した結論を変更することはできない。犯人を捜しながらミステリを読むということは必ず負ける(時に勝つこともあるが)戦いである。しかしこの場合、読者にとって勝ち負けは関係ない。勝とうが負けようが読者が楽しいのは推理の過程であって結果ではない。だから読者は推理合戦に敗れても再びミステリを読む。これに対して物語の冒頭ですべてが提示されているインバーテッドストーリーの場合、読者は作中の探偵(役)と一緒になって犯人を推理する必要はない。読者はすでにすべてを知っているのである。つまりこの時点で読者は物語世界から完全に切り離された第三者であり、すべてを知る神なのである。そして神の視点で「この犯罪をどうやって崩していくのか」と高みの見物をする。物語における神は作者だけである。神の立場が経験したければ自分で物語を作らなくてはならない。しかしコロンボを読むことで神そのものにはなれないまでも、神を疑似体験できる。これもコロンボのおもしろさではないだろうか。

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つまり、何が言いたいのかというと、作者がプロットを考えるときに倒叙型を選んだという時点で、勝ちなのだと思う。それを取り上げて、後から本格じゃないどうのこうのというのは、ナンセンスだということだ。
まったく作品の感想を書いていないことに気づいたので、ちょっとまじめに書こう。
まぁ、面白かった。各賞を総なめにしたのもわからないでもない。結局、何の賞を受賞しようと、誰にどう批判されようとあるいは賞讃されようと、お金を出して買った読者が面白いと思うか思わないかが一番重要だと思う。それに比べたら本格愛なんてどーでもいい話しだ。
それはそうと、読み終えて気づいたのだが東野圭吾作品を初めて読みました。その程度の男です。