『クビシメロマンチスト』

西尾維新氏の二作目。どういった意図の、あるいは戦略なのかは知りませんが、なぜ表紙はあんな感じのイラストなんでしょうか? 以下、ネタバレあります。
最初に感想らしいことを書いておくと、一作目はいい感じで推理小説ではあった。まぁ、問題がないこともなかったが、それでも本格推理小説ではあった。えっと、蛇足までに書いておくと、作者本人が本格推理小説と思って書いているかどうかは、この場合、どうでもよくって、読んだ僕が本格推理小説だと感じた。
これまた話はそれていくが、どうも推理小説の世界って、作者と評論家が強くって、読者が非常に弱いような気がする。いや、あくまでも印象論なんだけど。この辺、あんまり書くとわけがわからなくなるのでやめておくが、一つだけ。本格を書くような人は書く前には本格を読んでいたはずだ。しかもただ読むだけではなく、こよなく愛していただろう。これに対して、読者はどうがんばっても後発だ。つまり圧倒的に基本典籍を読んでいない。ミステリーの世界では基本典籍を一冊でも多く読んでいる方が偉いというような、暗黙のルールがある。僕はそんなものほとんど読んでいないけど、面白くないものは面白くないという。だって、労働により得た貴重なお金を使って本を買っているんだから、面白くないものを面白くないという権利はあるだろう。
話を戻そう。何があったのか知らないけれど、二作目になって急にミステリ部分が杜撰になった。簡単に言えば『クビシメロマンチスト』は本格でも推理小説でもない。まぁ、広義な意味でのミステリーかな。
さて、読んでいる間中、思っていことがある。もし、この作品と十代の後半から二十代の前半に出会っていたら、きっと今とは違う感想だっただろう。しかし既に三十代に突入している僕としては、作中における主人公の種々の考察が鬱陶しくてしかたがなかった。言い換えるなら、浅い。作中における語り手の心理考察というのはイコール作者の思想だ。二十歳そこそこで書いているのだからしかたがないとしても、それでもそこに頼って構築している作品なんだから、それならもう少しどうにかして欲しい。
第一作を読んだとき、なぜこのシリーズがライトのベルと評されるのか、よくわからなかった。でも、二作目で何となくわかった気がする。少なくとも推理小説ではない。もちろん、ジャンルわけなんて何の意味もない。と、とにかく、そう言うことで、これ以降の氏の作品を読むかどうかは未定。いや、保留、か。

クビシメロマンチスト 人間失格・零崎人識 (講談社文庫)

クビシメロマンチスト 人間失格・零崎人識 (講談社文庫)