真夏日

真夏日だったようで、でも、外出せず。今日は休息日。しようかな、と思ってたことはまったくせず。まぁ、しようかなと言うレベルじゃ、駄目なんだろうな。しなくてはいけない、ぐらいじゃないと人間はやらない。
人間が書けていないということについて、ちょっと考えてみた。たとえばAという登場人物がいる。顔かたちはこうで、背丈はこう。こんな服を着ていてどうのこうの。また、作中でその性格や嗜好なんかが書かれる。その人となりを説明することだけが人間を書くことでは、もちろん、ない。実際に存在しているかのように感じられるキャラクター造形ができているのが、人間が書けているだと思う。でも、それだけじゃない気がする。
昨日の話なんだけどケーブルテレビでアカギを放送していたので見る。この作品、ほとんど知らない。知らないながら見ていて、どうも違和感を感じた。というのは、主人公のアカギという登場人物の造形だ。作中でだけなら問題ないように思える。でも、アカギという少年が今に至るまでの13年間をどのように過ごしてきたのかと考えるとき、急に薄っぺらくなる。どんな両親にどのように育てられてきたのか、まったく想像できない。だから、いかに今の人間が書けていようと、薄っぺらく思えてしまう。そういう点では『The World Is Mine』のモンちゃんはしっかりしていた。いや、まぁ、アカギの場合は最初の数話を見ただけで、全部の話を読んだわけではないから、まったく的はずれな批判かもしれないけど、別にアカギを批判したいわけではなく、人間を書くというのは今だけでなく、過去も考えなくてはいけないということが言いたかっただけです、はい。