ら抜き言葉

突然ですが、“ら抜き言葉”について考えてみる。基本、言葉は生き物なので時代とともにどんどん進化、あるいは変化していくものだと考えている。だからら抜き言葉でもなんでも別にかまわない。言葉が乱れているなんて批判するやつは、じゃあなんでお前は日本古来の大和言葉を使ってないんだ? と聞きたい。
そんなことはさておき仕事帰りに原付を運転していてふと思った。「見れる」ってら抜き言葉なのだろうか? といま「見れる」と書いたら「ら抜き言葉」と注意が出た。でも本当にそうだろうか。
「食べられる」という言葉がある。ここでは「このきのこは食べられる」だとしよう。これを「このきのこは食べれる」と言った場合、間違いなくら抜き言葉だ。じゃあ見れるはどうだろうか。「このテレビは見られる」と言った場合、ら抜き言葉にすれば「このテレビは見れる」だ。でも「このテレビは見られる」って表現にすごく違和感を感じる。この場合は「このテレビは見ることができる」か「このテレビは視聴可能である」か「このテレビは映る」というべきで「このテレビは見られる」ってのはおかしい、と思う。他にも「公園に子供の姿が見られる」と言った場合、これはいくらか違和感は解消される。でもやっぱり「公園に子供がいる」か「公園に子供の姿を見ることができる」の方がしっくりくる。
はっきり言ってオチはない。結論もない。ただ「見られる」ってどういう場面で使えばしっくり来るのか今のところ思いつかない。もしかすると「見られる」という使い方そのものが間違っているのかもしれない。とまぁ、そんな感じです。