ふぁ〜ぁ

テレビのニュースを見ていると小学校における英語教育の必修化についての特集していた。で、『英語を子供に教えるな』という本の著者という人が出てきて次のように言っていた。
「年齢が何歳であれ相当努力しないと英語は身に付かない」
まさにその通りで小学生から英語をやっても喋れるようにはならない。もしどうしても日本人が英語を喋れるようにしたいのなら公用語にすべきだ。それ以外にない。
さて、たまにはまじめに仏教の話。いや、ふと思いついたのでネタにしてみた。仏教には大きく分けて2派あって、所謂、小乗と大乗だ。ただし小乗ってのはあくまでも大乗側からの蔑視による呼称で正確には上座部と呼ばれる。さてこの大乗と上座部の違いだが、簡単にいうと、自分が悟るために自分で努力するのが上座部。悟るための努力をしつつもそれを自分のためだけに用いるのではなく、他の人のために用いるのが大乗。現在、日本の仏教は全部、大乗。韓国、中国も大乗。上座部スリランカ、タイ、ミャンマーなどにある。で、今回のテーマだが日本の禅宗でいわれる「悟後の修行」について。いや、これに関してはよく知らないんだが聞いた話によると「悟後、つまり悟ったとしてもその悟ったことで満足せずにその後も修行をつつけることがもっとも大事である」ということらしい。聞く限りではすばらしいことだと思う。ただ、よく考えてみよう。お釈迦様は悟りを開いた後、自分が得た境地というものを多くの人に広めた。ただ、自分の悟りは自分だけのものであり、また他の人が同じ修行をしたから悟れるものではない。なので「悟り」というものがあるということと、それを獲得するためにはどのような修行方法があるのかという、方法論を死ぬまで説き続けた。その生涯は悟後の修行ではなく、人々のために使われた。何が言いたいのかというと、悟後の修行ってぜんぜん大乗的じゃないってこと。
ちなみに、釈迦は仏教において特別な存在であり、例外視される。ついでなので書くと、仏教とはあくまでも開祖釈迦が得た悟りという境地を追体験する宗教であり他者を救済することを目的とはしていない。なので大乗というのは厳密な意味では仏教ではないと言える。まぁ、僕はそこまで厳密にどうこう言うつもりはないけど。