の前に

仏教に、毒箭の喩と言うものがある。目の前に、毒矢が刺さって苦しんでいる人がいる場合、この毒の矢はどこから飛んできたのが、誰が毒矢を放ったのか、毒の成分は何なのか、などを検討する暇があったら、それよりもまず、苦しんでいる人を介抱しろというものだ。つまりは、どうしたら悟りを開けるのか、悟りとは何なのか、なんてことを議論する暇があったら、まず修行をしろということが言いたいわけだ。
最近のテレビを見ていると、いつも、毒箭の喩を思い出す。原発反対、脱原発もいいんだけど、今はまだ、その段階じゃなく、被災した人たち、住む場所を奪われた人たちを、どうにかすることが先で、そのあと、反対なり脱なりすればいい。完全に、選挙道具になっている。反原発論者にとって、格好の旗印にされている。
どうもおかしいんじゃなかな、という気がしてならない。
以上です