利他

某所で見かけた物をネタに書きます。内容は仏教に関係あることです。興味のない方はスルーして下さい。
一般に、上座部は自利、大乗は利他だと言われている。それで、これに対して、時々、聞くのが、「自利だと言うけど、お釈迦様は悟った後、多くの法を説いた。これは、利他だ」というもの。
さて、この主張なんだが、正しいように思える。他者のために、教えを説いたのだから、利他なんじゃないか、と。でも、実は全くの的はずれ。

インドでお釈迦様により、始められた仏教の最大の目標は、悟ること。言葉を換えると、解脱すること。じゃあ、解脱って何かというと、これまた明快で、輪廻から抜け出すことだ。これこそがインド仏教、唯一の目標。ただ、そう言っても、なかなか納得できない。なぜ、輪廻から抜け出すことが、唯一の目標なのかってことを、まず説明しよう。
お釈迦様は、若かった頃、小国の王子だった。いろいろあって、世の中に、病人、老人、死というものがあると知る。いかなる人間、僧侶であれ、王であれ、商人であれ、奴隷であれ、でも生まれると、病気にかかるし、年を取り老人になる。そして、やがては死ぬ。このことを知り、若き日のお釈迦様は、死を恐れた。どうすれば病気にならないのか、年を取らないのか、死ななくていいのか、を考えた。そしてたどり着いたのが、生まれなければいいということだった。生まれたから、病気になり、年を取り、死ぬのだから、生まれなければいい。そのためには輪廻の連続から抜け出せばいい、と考えた。これが、仏教の始まりだから、最終目標が輪廻から抜け出すことなのだ。さて、その後、修行したお釈迦様は、見事に輪廻から抜け出した。さて、ここまではいい。問題はここから先だ。確かに、輪廻から抜け出した後、死ぬまでの間、お釈迦様は教えを説いた。しかし、これは教えを説いただけで、利他をしたわけではない。

インド仏教における重要な考え方に、業というものがある。簡単に言うと、過去に行った行為の結果が、未来に生じるのが業だ。例えば、ある時、生き物を殺したとする。この時点で、“生き物を殺した”という業が生じる。そして、この業は来世以降のいつかに、必ず結果がでる。重要なのは、来世以降という点と、必ず結果が出るという二点。いかなる人でも、例え悟りに達した人でも、業のシステムから逃げることはできない。つまり、輪廻から抜け出した存在であっても、業があると、死後、生まれ変わるのだ。そのため、すべての業の結果が出た後でないと、本当の意味で輪廻から抜け出すことはできない。
うちの師匠はこの業をよく、借金に例えていた。自分で借りたお金は、自分で返さなくてはいけない。自分で生じさせた業も自分で責任を取らないといけない。しかし、時代が過ぎると、他人の借金を肩代わりして返してやろう、返すことができると考えるようになってきた。これこそが利他という考え方だ。
さて、話を元に戻そう。お釈迦様は悟った後、死ぬまで教えを説いた。しかし、それだけだ。お釈迦様が、他人の業をどうこうしたという話はない。お釈迦様が行ったのは、経験者の立場からアドバイスをしただけだ。これは梵天勧請にもちゃんと書かれていたはず。大意だが、「あなたが指導すればあなたと同じ境地に到達できる者もきっといます」と梵天に言われて、お釈迦様は他者に自分の経験を話すことにした。
つまり、お釈迦様が生涯をかけてしたのは、インストラクターであり、けっして借金の肩代わりではない。お釈迦様は利他行なんてものは一切やらなかった。そもそも、利他なんて考え方はなかった。

さて、長々と書いたんだけど、そう言うことです。はい。